昭和54年01月05日 朝の御理解



 御理解 第37節
 「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」

 お道の信心もここのところがわかる信心にならせてもらうと、いよいよ限りないおかげが頂けるようになります。ちょうど学者が年をとっても、眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ、限りがないのです。だから修行というのは、これからそれまでという事ではないけれども、その修行の喜びとか、その修行の楽しみというものが、まず、わからせてもらう。
 いよいよ明日から寒中修行が始まります。ヤアという心持ち、より一気一心の心を持って致しますから、ひとつきせめて一年の間、寒修行と夏期修行ぐらいはという人達もだんだん、出来ておりますように、ひとつきならひとつきという期限を切っての修行でもとにかくひとつきの修行をやりぬかせて頂いた時には、おかげ頂いたという心持ちが開けてくるもんです。
 それを教祖様は一生がとこう仰っておられます。一生が修行ですからここのところはあぁきつかった、辛かったけれどもひとつき間は無事修行しぬいたという事、という事から辛かった、苦しかったという事がない。いうならばそれが楽しいもの、それがより有難いものというところまで体認させてもらわないと、心に体にそれを認めさせん。こんなに有難いもんだという事をわからなければ、今日のここの御理解一生が修行じゃと。この世は苦の世だ、苦の世界だという意味がそのまま修行という事じゃないのです。
 そりゃ、やっぱり苦労は苦労、信心修行とこういうならば、いわば苦労というものがあってはならない。例えば、福岡の初代が頂いとられるという、いわゆる馬鹿と阿呆で道を開けと。馬鹿と阿呆になりきらせてもらう修行をさせてもらえば、もう絶対の道が開けるんだと しかもなりきらせて頂いたら、なる事のはじめの間は辛さとか苦しさ、それはひとつき間ならひとつき間、ヤアというて修行をする。それがやっぱり楽じゃない。眠たくもある寒くもある。
 けれどもそれが馬鹿と阿呆で道を開けという程しに、その馬鹿と阿呆になるという事が、まあ、いよいよ大きな信心になるという事でしょうけれども、全然問題が問題ではなくなってくる。いうならば、馬鹿と阿呆で道を開く事が、こんなに有難いもんだとわかった時が、はじめて学者が眼鏡をかけて年をとっても本を読むようなものであろうぞという事になるのです。
 だからそこのやりぬいた向こうに、その修行の有難さ、尊さというものが分って来る。そして道が開けてくる。しかもそれが限りなく開けてくる。だから皆さん、この馬鹿と阿呆で道を開くという事だけでも徹底したらです、そこに暫くしとりましたら、馬鹿と阿呆になる事がこんなにも素晴らしいだという体験が生まれてきますから、もう楽しゅうなっくるのです修行が。普通でいうような難儀とか苦しい事とかという、その事が楽しゅうなってくるです。有難とうなってくるです。
 体験が伴うてきます。そういう修行であって私は一生できる修行。只、一生苦しみぬいたといったのは、私は修行の中に入らんと思う。お道の信心では。ね、学者が年をとっても、眼鏡をかけて本を読むという事は、ね、ああ、又、勉強せんならん、又、本を読まなけりゃならんというのじゃない。いうならば、学徳が身についていく事を、もう楽しみでいうなら、もう本は離されない。それが私は、教祖がおっしゃる眼鏡をかけてでも本を読むようなものであろうぞ、だと思うのです。
 だから、もう本当に馬鹿と阿呆になるというだけでも、徹しさせてもらおうという私は、一心発起。三十六節にありますようにね。この一心を立てるというね。神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けられるとおっしゃる、ね。だからこの一心を出すとすぐにおかげが受けられるとおっしゃるね。例えば、この修行をやりぬかせて頂こうと、これは一心を出さなければ出来る事じゃありません。それを例えば一月の一心、一年間の一心、一生の一心ともして行かなければいけんのです。
 わあ、そりゃちょっと大変だと思わずにね。その一心を出すとすぐにおかげが受けられると。だから金光様の信心は、一生をかけての信心修行という事になるのです。だからそれを楽しゅうなる為に、有難とうなる為に、徹しなければ駄目です。いわゆる、最近泥の信心という事が盛んにいわれます。というのは、それはとりもなおさず、馬鹿と阿呆で道を開くという事と同じです。どんな事があっても、黙っておれれる、それがね、はじめの間は辛い。
 けれど、それが黙っておれれるという事になり次には黙っておれれる事が有難いとわかってくる。もうすでに、学徳が身についていきよる学者のようなものだ。神徳が身についていきよる事が、自分の身に感じられる楽しゅうなってくる。皆さんこの事だけでもね、一心発起しなければ駄目です。修行というものはね、一心発起、そしてそれが有難とうなる、楽しゅうなるところまで、自分のものにしていかなければいけない。それがね、そうなってくるのですよ、おかげが伴うてくるですからね。
 楽しゅうなって有難いです。もうこれでいきゃぁ良い、これでいくと一心を出さなければ駄目です。それを利口者になろうごとあったり、偉い者になろうごとあったり、時々そういうものが出てくるところにです、もう無惨に馬鹿と阿呆で道を開けとおっしゃる。道を開く程しのおかげになってこないのです。道を開くという事は念願が成就、念願以上の念願が成就ししていくという、そういう道がひらけてくるのです。私はここんところはね、一心を出すという。一心を出して修行には取りくまなけさばいけない。
 始めの間は辛いでしょう。けれどもそれがおかげの頂けれる元であるという、いうなら学徳が身についてくるという、信心の喜びが身に感じられるところまでいかなければ一生が修行じゃと言うことがジュツない、苦しい、この世はどうせ苦の世、苦の世界と決まっておるのだから、まあこれくらいの苦労は当たり前と諦め的なものであっては修行にはならんのです。苦労です。一心発起させてもろうて、どういう例えば、難儀な事であろうがそれが有難く受けられる稽古、その為にはね。
 ひと月参っておかげ頂こうと、言った様な事で頂けるもんじゃない。例えば寒修行というのは、そういう一つのきっかけ、修行というものは、有り難いんだ、尊いんだきついけれども眠たいけれどもそのきついがなくなり、いうならば眠たいがなくなる。そこからいうなら一切が拝めれる信心、都合のよか事だけを拝むのじゃない。いうなら、そこに普通でいうなら難儀といったような問題でも拝んで受けられるようになっくる。もう有り難いという世界に入っているから。
 昨日一昨日は小日向の信心共励会でした。ここから先生方も参りました。幹三郎が行っておりました。昨日熊谷さん朝の御祈念に参って見えてからお届けに、昨日は大変におかげを頂きました。幹三郎先生の潤う信心が潤うてくるというお話をなさいました。だから幹三郎先生潤いという事はどういう事でしょうかといってお伺いさせて頂きましたら、一切を拝むという事ですよといわっしゃった。
 でその後に有難うなかねば拝めませんからねと、もうその一言を聞いてから何と素晴らしい一言かと思うておかげを頂いたというお礼のお届けがありました。ね。拝む事が恥ずかしか、手を打つ事がどうも気兼ねになる。心の中に有難いというものがないとなければ拝まれないです。拝むという時には、信心の潤いというものは拝むと言う事から、一切を拝めれる、そこに潤いがそれこそ滲み出てくるのである広がっていくのである。
 「ははあ、拝むという事が潤いですか」「そうですよ」と有難い時でなければ拝めませんからと。成程これなら潤いが出てくるであろう。そういう信心の艶というか、潤いというか、そういう潤いの中にです。馬鹿と阿呆で道を開くという、その一心発起した、その事が成就されていく。貫かれていく。ね。
 こにはです、いわばここで馬鹿になっちゃならん、ここで一言いわにゃと思うておった私が、その事が有難いと気付き、有難いとわかる。有難いというおかげがこれに伴うてくる。成程、これならばいよいよもってです、この信心を貫かせて頂く事という事がいうならば、一生が修行じゃというのは、そういう内容を持った修行でなからなければ、修行にはならないと思う。どうせこの世は苦の世、苦の世界。
 だからまあ、この位の事は、当然だれでも苦労しよんなさるとじゃけん、というくらいの事では、これは修行にはならん。学者が眼鏡をかけても年をとっても、本を読むようなものであろうぞ、信心させて頂く者が、いくら年をとっても私共の周辺には暑い、寒いは言うに及ばん、様々な問題があるけれども、それ一切が拝む対象である。有難いなからなければ拝まれん。
 有難く拝んで受けた時に、それはいわゆる、馬鹿と阿呆でいよいよもって限りない道の広げていくおかげの世界が開けてくる。勿論そういう心の世界に住まわせて頂いたら、その心をそのままあの世まで、持っていけれるという事は、うなづけますね、お互い。信心はだから徹する事です。だからその徹する事が脇から見て苦しかろう、ジュツなかろう自分苦しいじゅなくて、それがだんだん有難いものに本当なものになってくるという、私はその事が修行だと思うですね。
   どうぞ。